2010年5月17日月曜日

100517 口蹄疫の発生とジュセリーノの予言

まあ今一番問い合わせが来ているのはこちらの事件についてであろう。

宮崎を中心とした九州の何ヶ所かで日本国内では10何年ぶりかの口蹄疫の発生が確認された。

現地の関係者の方々のご苦労、あるいは心労というものは私にとっても沈痛以外の何者でもない。これは天災ではなくて人災としての要素が非常に大きいからだ。

「ジュセリーノはこの予言を公表してましたか?」という問い合わせであるが、確認作業にものすごい手間隙がかかってしまった。

自分が調べなおしたのは日本国内で発売されたジュセリーノの予言が収録されている書籍と公式HRなどに掲載されている年間の予言などだが、現状ではジュセリーノが「日本国内で口蹄疫発生」という予言はひとつもない。もしかすると(まだみつからない)といったほうがいいのかもしれないが。

というのも、「だいぶ前にジュセリーノの講演に行った」という人から「ジュセリーノは『日本で家畜の病気が蔓延するだろう』(時期不明)というようなことを言っていたような気がします」というようなメールが来ているのだ。

それ自体がまだ「?」のつく情報だが、このようなことを書いてくる人が実際にいる以上は、ここで自分は「ひとつもない」と断言するわけにもいくまいと思う。

但し前後関係からすると、ジュセリーノは日本国内での口蹄疫の発生の予知の公表などはまったく考えてはいなかったはずだ。これは間違いない。



そもそもジュセリーノは口蹄疫の発生と蔓延の仕組みに関して大きな間違い(勘違い)を犯しているということはこのブログでも取り上げたことがある。

今回の日本での口蹄疫の発生がそうなのだが、この口蹄疫の発生もまた政治家の失態が招いた人災としての側面が大きい。

ひとつは、現場では不安視されていたにもかかわらず、今までストップしていた韓国・中国からの牛の輸入を、功をあせった政治家たちが解禁を許可したために、(検査システムのゆるい韓国あたりから)感染牛(水牛といわれている)が日本国内に入って来たとする見方がなされていることだ。

もうひとつの政治家の失態とは、現場から口蹄疫感染の第一例が報告されたにもかかわらず、政府の対応が後手に回ったことだった。

その理由が情けない。担当大臣がメキシコに外遊中で事態の把握のために二度手間三度手間となり現地への対応のための連絡が10日近くも遅れたとなっている。

それどころか、このような事態(担当大臣の長期海外旅行)のときは国内に残留している閣僚が緊急に担当を兼任するのが常識だというのにその申し渡しもされていなかったという。

これは「不慣れだったので」とか「なにぶんはじめてのことでしたので」というような言い訳が許されるようなレベルではない。明かな怠慢としかいいようがない。

これと同じようなことはこれからも起きてしまうのだろう。だから自分は今宮崎で起きていることは「決して他人事ではない」と言う。



ジュセリーノの口蹄疫の予言は毎年見ることができる。ブラジルでは毎年のように起きていることだからだ。

ところが「ブラジルで口蹄疫の発生」のジュセリーノ予言は、何故か他の(たとえば鳥インフルエンザなどの)疫病の蔓延と同じように、その発生時期に季節性が見て取れる。


簡単にいうと、1月と2月(ブラジルでは夏)になぜか「ブラジルの○○で口蹄疫が発生」という予言が集中してみられるのだ。

今回の日本での発生の感染源であると推定されている中国と韓国の発生時期をみれば一目瞭然なのであるが、ともに1月から3月と冬からのまだ寒い時期に感染が確認されている。

ブラジルやアルゼンチンでも、日本-つまり北半球とは季節が逆になる8月の冬の季節にでも口蹄疫の発生と蔓延は頻繁に起きている。

口蹄疫の感染には季節はあまり関係がない。少なくとも、寒いからであるとか、あるいは暑いから発生するというものではない。コレラであるとかの伝染病とは違うものだ。

では何故ジュセリーノは口蹄疫という家畜病罹患には季節性があると思い込んでいるのか。あるいはジュセリーノの口蹄疫の予言には季節性があるのだろうか。

これはブラジルにいる日系人のかたからのお手紙で知ったことなのだが、かつてジュセリーノは2005年発表の2006年の年間予言の中に「口蹄疫の発生」というものを入れ込んで、これが時期的に当たった(とみなされている)からだろうというのだ。

要するに、ジュセリーノは「過去の栄光をもう一度」とばかりに、毎年年末に出す年間予言の1月と2月(ブラジルの夏)にはこの「口蹄疫の発生」の予言を入れ込んでくるらしい。



それで、ジュセリーノは「日本で口蹄疫が発生」という予言は公表したかどうかだが、今のところやはり「していなかった」と言い切れるような材料は見当たらない。

ただこれはいえると思う。ジュセリーノが口蹄疫の発生のメカニズムというものを誤解している以上は、カタチになるなにかでの公表はされていないはずだと。

上でも書いたが、口蹄疫とは季節であるとかそういうことで発生する家畜病ではないからだ。

そのほとんどが今回の宮崎のように「検疫体制の不全」であるとかむしろ人為的な要素でその国に侵入したり大量発生する。これはもうどうにも動かしようもない事実である。

今回の件で現地宮崎の体制なり対応に問題があったと責める人たちがいるが、そういう考えを持っている人たちは単に無知なだけだろう。

初動以前の段階に、宮崎以外のどこの地域にでも、この「口蹄疫」が発生する危険というものはすでにあったのだ。

今年の一月に中国で口蹄疫が発生したということがわかった時点で政府は中国(香港)・韓国から生牛(水牛を含む全ての偶蹄目)の輸入はストップしなければならなかった。

というか日本国内に進入する危険は察知されていたし、そういう案件は上がっていたものの、それをひねりつぶした政治家がいたことこそが今回の「口蹄疫の国内大発生」の全ての原因になる。

この事実からは絶対に目をそらしてはいけないと思う。なぜかマスコミではこのことにはまったく触れていないようだが。







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2010年5月15日土曜日

100515 国会で起きた超常現象について




「今世間で話題になっている国会議会で起きた超常現象」についてのメールが何通か来ている。

自分は以前「外気功」と呼ばれているような、人の体を直接触らないで倒したり引き寄せたりする奇術についてこのブログでも書いたことがある。あれは要するに人間の心理を突いて、さも何かしらのチカラがはたらいて倒れたり押したりに見えるようにしているだけである。

問題の国会で起きた「超常現象」と言われているのシーンのビデオがyouTUBEにもあった。




画面向かって中央左寄りにいる甘利明という国会議員が隣に立っていた腕組みをしている初鹿という男性議員を両手で押したところ、押された初鹿議員のうしろにいた三宅雪子議員がものすごい勢いで前にドテッという感じで転倒している。

何故これが「超常現象」かというと、転倒した三宅雪子議員が自分のすぐ隣にいた押された側の初鹿議員ではなくて、最初に初鹿議員を押した甘利議員に暴力行為を受けた(突き飛ばされた)と言っているからだ。

では、その最初に押された初鹿議員はなんて言っているかというと、これが謎に包まれているのだ。


開会が遅れたりで、やっと本会議が終わりました。昨日の内閣委員会の質疑の際に自民党の大臣経験者につき飛ばされたようで、転倒して負傷した三宅雪子議員が松葉杖で本会議に出席していました。採決で壇上に上がる時は大変そうでした。
http://twitter.com/AkiHatsushika/statuses/13905161035

この初鹿昭博という甘利明議員に直接に押された議員は、自分が押された勢いでもって三宅雪子議員が転倒したということ、つまり自分が当事者として体験した事実も記憶にないのだ。これを謎と呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。

ふつう、自分が接触した相手があれだけの勢いで倒れこんだということは、自分に対しても相当なチカラ(押すエネルギー)が加えられたということだから記憶に残らないはずがない。その記憶(体感)すらこの初鹿議員にはないらしい。

まさに謎が謎を呼ぶような超常現象が(しかも日本の国会で、大勢のカメラの前で)起きてしまったということになる。

しかも、ビデオをスローで再生してみると、さらに多くの超自然現象が起きていることがわかる。三宅議員を前に突き倒すだけの運動エネルギー(みたいなもの)はどこから来たのかだ。



普通、このような状態で歩き出そうとした人間(片足立ちになる)が横、あるいは前方斜めから(二次的な)圧力を受けた場合、後ろの方向に尻餅をつくような形で倒れる。ビリヤードを連想するとわかりやすいかもしれない。

つまり、後ろに倒れこもうとする人間に与えられた運動エネルギーとか位置エネルギーをも帳消しにして、さらにその何倍もの運動エネルギー(のようなもの)が三宅議員の後方から加えられた(あるいは前方から引き寄せられた)ということになる。

その押す力(エネルギーみたいなもの)はどこから来たのだろうか。それがまったくわからない。

三宅議員の言い分と、この初鹿昭博議員の「証言」、そしてこの現場のビデオを見て総合的な判断を下すと、三宅雪子議員は「私は甘利議員が放った目に見えない圧力によって真後ろから突き飛ばされました」と主張しているんだなと受け取らざるを得ないことになる。

しかもだ。このような不可解な状況にもかかわらず、転倒した三宅雪子議員はすぐさまに「(初鹿議員ではなくて)最初に初鹿議員を押した甘利議員に転倒させられた(と認識をもった)」というのだから、もしかするとこの三宅雪子という人は(相手の意思を読み取る)テレパシーかなにか特殊な持ち主である可能性も浮上してくるではないか。

聞けば、民主党の国会対策委員会は、最初に初鹿議員を押した甘利議員を、三宅議員に対しても暴力行為があったとして懲罰動議にかけるといっているらしいが、何を悠長なことを言ってるのだろう。そんなことやってる場合か。

懲罰動議より先に「日本の国会で起きた超常現象の実在の証拠」として「サイエンス」とか「パリティ」といった科学論文誌に論文として提出するべきだろう。

民主党が「三宅議員は(初鹿議員にでなく)甘利議員に転倒させられたといっているということは、それはすなわち甘利議員が(単なるトリックの「外気功」ではなく)超能力の持ち主かなにかで、それが本当にこの世に実在するという前提があればことだからだ。

もし、これが甘利議員の超能力の仕業でないとしたら(つまりこの世には外気功というような超能力というものは存在しないとしたら)それはこの三宅雪子と初鹿昭博が組んだ猿芝居ということになるのだろうけれど。

2010.05.15

[追記]

この件に関するコメントがいくつか来ている。紹介できるようなものがないのが残念だが。

自分はなにも外気功というような超能力の実在前提でこのようなことを書いているのではない。

彼ら(民主党であり、三宅・初鹿両議員)の言い分は「甘利明議員は外気功というような超能力の使い手であり、そのみえないパワーを使って三宅議員を突き飛ばして転倒させて怪我を負わせた」になるのだがそれでいいのかということだ。

もちろん自分は超常現象を否定する立場にあり、この現象の真相は単に三宅と初鹿の仕組んだ猿芝居だと確信している。(偶発事故の可能性もないということ)

ただしこれが重要なことなのだが、このふたりが芝居を打ったということを証明する直接証拠らしいものもない。これも事実である。

但し傍証はいくらでも出てきている。

・そもそも三宅初鹿両議員はこの委員会に所属はしていない。三宅は自分の所属する委員会が流会になったのちに何者かの招集を受けて、ともに見学の立場で議会に入場している。

・共産党の議員からの指摘もあったが、参加資格のない見学の議員があの場所(通路)にまで足を踏み入れることがそもそも議会の進行を妨げる妨害行為になる。

・現実、初鹿議員は腕組みをして、議長席に歩み寄ろうとした甘利議員の前に立ちふさがった。(だから甘利議員は初鹿議員を押したのだ)

・一度「どけろ」といわんばかりに手で払うしぐさをした甘利議員に対して、初鹿議員はそれを拒否する意思を示すように首を横に振っているようにも見える。(甘利議員がハメられたと述懐しているのはこれを指していると思われる)

・そののちに、初鹿容疑者は甘利議員が自分を押しのけようとするのに身構えて腰を低くして前かがみの姿勢をとった。つまり、初鹿容疑者ははじめから甘利議員の通行を邪魔する目的であの場所に立っていた可能性が非常に大きいということになる。

・その他 三宅議員の「事件後」の発言に「自転である」とするものがあったという他議員の証言があったり、肝心の「診断書の内容が直接転倒事故と結びついたものとは見られないものである」とするもの…

信じられないくらいの数の疑惑が浮上してきているのは皆様も御存知であろう。

自分が思うこととは、国会がどうしたとかそういうことよりも、このような安易な仕掛けで何かを企むと結局恥じを晒すことになるというのは、テレビとかが仕立てる(インチキ)オカルトと同じだよということなのだが。

[追記 2]

事件の詳細が明らかになるにつれて、内容がジュセリーノとも超常現象からも遠く離れてきたものになってしまった。

この三宅雪子という人の言い分(証言)自体もコロコロと変わってきているし、そのままではただの「虚言癖の国会議員がいました」的な内容の記事でしかなくなる。

いやオカルトであるというもの、そもそもが人間の「虚言癖」という悲しい性と密接に関わりがある。

オカルトの謎を暴くという行為自体が実は「誰が嘘をついているのか」を暴くことでもあるし。

三宅雪子の証言内容の変節については、彼女のHPを見ることではっきりとわかることがいくつかあった。

ひとつは「押された段階で誰が自分を押したのかはわかっていた」が、どこでどうなったのか「あとから人に教えてもらった」ことになっている。

つまり、それでは(現場の状況からすると)三宅雪子は自分を突き飛ばした相手のことを誰か知らずに振り返りざま、甘利議員に向かって「ひどーい」という言葉を投げつけて、そしてそのあとで自分を押した相手が甘利議員であると教えられて知ったということになってしまうからだ。

最初の段階で、すでこの三宅雪子の態度はおかしかったということだ。

で、この一連の三宅の不可思議な行動に整合性というものを求めると、どうしても、三宅の行動が「はじめから甘利議員が自分(と初鹿議員)を突き飛ばすことが決まっていた上でのことだったという推測を強くしてしまうことになるのだが、三宅はこの自分の証言の変節というものが逆に「芝居(自作自演)ではないのか」という世間の疑いの目を強くしていることに気づいていなかったのだろうか。


[追記 3]

「先日(18日)日本テレビ朝の番組に三宅雪子議員が電話で出てました。とんだ食わせ者ですね」という意見が来た。

はなしには聞いていたが、実物を見ないことには何もいえない。今しがたその問題のシーンがyouTUBEにアップされていることを教えられて見たところだ。



こちらからの角度のほうがよりいっそう事件の真相を知るには好都合だろう。これを見ると、三宅容疑者は甘利明議員が初鹿議員を手で押すのを目で確認してから前方(彼女にとっては左ということになる)に飛び出していることになる。

つまり、彼女が「うしろから押された」といっている「後ろ」とは甘利議員の立っている側とは反対側のことになるわけだし、(はじめから誰が押したかは知っていたという供述を翻して)「あとから誰が押したかを教えられて知った」と言っていることになる。無茶苦茶である。

(映像という)事実証拠を突きつけられて、それでもこうまでして平然と嘘をつくことが出来るのはどうしてなのか。

自分などは、カルト信者による犯罪にも通じる怖さというものを感じている。

あなたもあのオウム事件のときの容疑者となったオウム真理教の信者の証言やらテレビでの発言を思い出しませんか?

にしても、番組司会の加藤浩次のいきなりの「当たってませんよね」という質問の仕方はストレート過ぎたのではないか。もちろん、それが彼の持ち味であり、また多くの視聴者の率直な感想であるというのもわかっているつもりではあるが。

2010.05.19


2010年5月13日木曜日

100513 大地震の予言についてひとことふたこと

ジュセリーノは「今月14日に東京で大地震がある」という予言を公表している。[註1]

そのためか最近再びこのブログの訪問者数が伸びている。

いつも言っていることだが、自分はこういう数字の伸びははっきりいって好きではない。

このような訪問者の伸びがあるということは、それだけ多くの日本人が不安を感じているということでもあるからだ。


しかし、ありがたいのは、今回は不安を訴えるメールであるとかコメントの数はさほど多くないということだ。

それでも50近い数のそういったコメント・メールは来ているが、以前(二年前)のような「500」だとか、あるいは「1000」という数に比べればずいぶんと減ったものだ。

それだけ皆がこのジュセリーノという予言者の真実の姿を学んだということだろうし、このようなブログをやってる立場の私にとっては喜ばしいことだと歓迎している。

まあそれでもやはり皆無ではないというのもこれもまた大きな事実なのだが。




何通かの(返事が必要だと思われる)メールに対しては御返事は差し上げた。

それにしてもだ。本来ならばこれは自分の仕事ではないはずだ。

本当ならば、こういうことをしなければならないのは「ジュセリーノ予言」をネタにして本を出したり、テレビ番組を作って放送した連中だろう。

以前は「なんで自分が連中の尻拭いのようなことまでしなければならないのだろう?」というような半分の怒りと半分の感傷を抱くこともあったが、今ではもう別のことを考えるようになっている。

はやり、日本人の誰かはこういうことをし続けなければならないのだろうし、それができるのはいまところこの日本ではただひとりこの自分だけだ。そしてそれを買って出たのはほかの誰でもない。この自分なんだよなぁというようなことだ。

まあだからこれからもどんどんとメールを送ってください、なんてね。


さて、それにしても最近特に思うのは「日本人の優しさ」というか、別の言葉でいうと「争いごとを好まない温和性」というものだ。

ジュセリーノの予言のような「まやかし予言」がこの世にはびこり、ある種のしこりのようにして奥深いところにいつまでものこってしまうのは、その一因を考えた場合、この日本人の特性である「争いを好まない温和性」というものが大いに関係しているのではないかという気がするのだ。

たとえば、例を出せば、インドネシアであるとか中国で流行りかけた「ジュセリーノ予言」があっさりと消えたのは、その国の政府が率先して「この予言を信じるな」という声明を出したからである。

日本ではジュセリーノはこのような扱いはうけていない。まあ強いていえば「過去の人」扱いではあるが、完全な意味での過去の人ではないのも事実。

自分は、こういうところがいつまでたってもジュセリーノの予言というものが人々の口の端から完全に消えることがないひとつの原因ではないのかと思っているのだ。

じゃあどうすればいいのか。それについては何度もここで書いているとおりである。

かつてジュセリーノのことを「的中率99%の予言者だ」とジュセリーノを持ち上げて紹介したマスコミすべてがちゃんとしたかたちで「あれはウソでした」と公式に認めて謝罪するしかないんじゃないかと。

そして、それをさせるのはこの自分(だけ)ではなくて、(自分を含めた)日本人すべてに課せられていることなのではないだろうか。

ジュセリーノの予言のウソに騙されて憤慨している、あるいは不安を感じたという人は、本当ならばジュセリーノの番組を作って流したテレビ朝日、日本テレビ、テレビ東京というテレビメディアに対しては抗議をするべきなのだ。

ジュセリーノの予言を肯定する内容の本を出版した「たま出版」「ソフトバンククリエイティブ」「講談社」に対して断固たる抗議するのが本当は当たり前のことなのである。

それをしないで「なんか騙されちゃったみたいだねぇ」みたいにまるで自分のせいにして黙り込むのは実はよくないことなのだ。

ちなみに、この「5月14日大地震がある」という予言が掲載されているのはテレビ東京の番組を下敷きにして一昨年「ソフトバンク」から出版された「ジュセリーノの警鐘」という本である。

この世には愚かな人間はなんぼでもいる。それは知っていたが、それでもこの「ジュセリーノの警鐘」という無茶苦茶な本を「自分がプロデュースしました」と誉れとして語る愚か者が本当に存在するとは思わなかった。しかし、いるんだよな、そういうバカヤロウがさ。

そっちのほうが私達日本人にとっては「恥」であり問題なのかもしれない。




[註1] 東京が(M7クラスの)大地震に見舞われる確率については以前ここで書いたことがある。 おおよそ100年に一度、このような大地震が東京(というか南関東)で起きているのは事実であるから、いつかは東京でこのような大地震は起きるだろう。そう見るのがごく普通の考え方になる。

しかし、ある特定された日にその大地震が起きる確率はおおざっぱに言えば「1/36500」になり、これはいつどの時点でも変わらない。もし99年間大きな地震が起きなかったからといって、その次の年の100年目に100%の確率で起きるということにはならない。

東京に住むということは毎日毎日この「1/36500」という確率と向き合って生きるということにほかならない。「1/36500」とはつまり「0.0000273」であり「0.00273%」ということだ。

しかし、この世には(特に東京に住むということは)0.00273%以上の確率で起き得る災難のほうがもっともっと多いのが大きな事実だということを忘れてはいけないと思う。



逆に言えば、ジュセリーノだって誰だって100年間毎日毎日「東京で大地震が起きる」と言ってればそのうちにその予言は的中する可能性はあるのだ。「(そういう意味で)ジュセリーノは努力不足だと思う 今の100倍以上の大地震の予言を公表しないと年にひとつの的中予言も出ない」というコメントを頂いたが。まあ実際そんなところだろうな。



[追記]

「100年に一度は正しくない」という御意見を頂いている。まあ確かに「100年に一度」という表現は正確ではない。でも皆は普通に「100年に一度は大地震が…」というでしょう。それをそのまま転用しただけで「100年に一度」は実証可能な数字からきたものではない。単なるたとえとして持ち出してきたつもりである。もちろん、「0.0000273」とか「0.00273%」というのも単に365日×100年を置き換えただけでそれ以上の深い意味はない。「ある特定の日に大地震が起きる確率」についての考え方を示してみたのだ。

関東地震 ウィキペディアでは「200年に一度」になっているが、これはあくまで相模トラフを震源とするものに限定しているからだ。

何にしても、ジュセリーノにしろ誰にしろ「5月○日に東京で大地震が起きる」と口にしても、それが本当に起きる可能性は限りなく小さいということは心にとどめるべきだろう。

また、「50近い数のメール・コメント」であるとか「500とか1000」というのはメール・コメントの数のことであって「50人」であるとか「500人とか1000人」と人数のことではない。あくまでもメール・コメントの数である。実際何人の人が「ジュセリーノの予言に不安を感じてメールやコメントを書き込んできたのかははっきりとはわからない。まあ常識的に考えて(同じ人が何通もメールを寄越しているのは確かなので)実数はその半分以下になるのではないだろうか。


[追記 2]

「100年に一度起きるか起きないかの東京直下大地震」というフレーズでいうと、ジュセリーノはわずか4年の間に「東京(関東)で大地震が起きる」という予言をすでに6回以上も事前公表している。結果はいうまでもないがすべて外れている。

中には「ジュセリーノは予言の公表が下手だな」みたいな感想を漏らすひともいる。あるいは上記で紹介したように「努力が足りない」と言ってきたひともいた。

「M.Y.C.O.」さんという方は、もしかするとマジシャンであるとか「超能力マジック」について精通している方のような気がする。

「M.Y.C.O.」さんからのメールには奇術とかマジックでごくごく普通に使われている「透視」「予知」のテクニックを学べば、少なくとも今のように(かまたのような人間にということか)トリックがバラされるようなドジは踏まないですんだだろうというようなことが書かれていた。そのメールに書かれていた予言のトリックというものを見て、自分は背筋が凍りつくような思いがした。

なるほど、「M.Y.C.O.」さんの書いているテクニックを使えば、(ジュセリーノでも誰でも)衆人監視の中で自分の予知能力を証明するひとつの方法として成立する。

しかし、よくよく考えてみたら、ジュセリーノはそのテクニックは使えないのだ。

もしジュセリーノがそれをやろうとすると、今度はジュセリーノが公表している自分のプロフィールに嘘があるということになってしまうからだ。

また、この「M.Y.C.O.」さんは一昨年の11月にテレ東で放送された「あらたなる五つの警告」という番組の「ブラジルで起きた一家殺人事件を警告したジュセリーノ」のコーナーは「ジュセリーノがヤマカワと組んだ茶番」ではなくて、「番組の制作サイドがはじめから仕込みをしていた」と主張している。(オンエアされた)画面にその決定的な証拠が写っているというのだ。

自分もこの番組のそのコーナーについて検証した記事の中で「番組が仕込んだヤラセの可能性」については触れた。番組がヤラセを仕込んだ可能性あるとだけ書いた。

なるほど、自分も言われて初めて気づいたのだが、ジュセリーノは何者かに事前に言い含められていたことをテレビカメラの前でやってしまった。そのため、このシーンがあらかじめ(自分の意思ではなくて)番組製作サイドから提案されたシナリオに沿ったものだということが丸わかりなのである。

自分は「ぎんぺい」さんという方から送っていただいたDVDで、この番組のV(ビデオ映像)をそれこそ繰り返し何度も何度もみている。そんな自分もそれにはまったく気がつかなかった。

やはりこの世には「自称予言者」のトリックを見破るというようなことをさせたら自分以上の実力の持ち主という方はなんぼでもいるようだ。

自分も、もうすこし謙虚にならないといけないなというようなことをしみじみと感じた。

さて「M.Y.C.O.」さんからの指摘であるが、もう少ししたら画像付きで(もしかして動画つきになるかもしれない)記事として載せようかと思う。今しばらくお待ちください。(2010.05.14)

※ 訂正とお詫び 
長らく「M.Y.C.O.」さんの名前を「MYCO」さんと誤記してそのままにしていた。日本語表記だと「エムワイシーオー」さんになるのだそうです。謹んでお詫びいたします。

2010年5月8日土曜日

100508 ニューヨーク株式大暴落とジュセリーノ予言

こんなニュースがあったために沢山のメールコメントをいただいております。

NY株続落、139ドル安
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2010050802000194.html?ref=rank
東京新聞web

たしかに、いわれて思い出したのだが、その昔(三年くらい前に)ジュセリーノはそんな感じの予言を公表していた。

一応念のためにとウィキペディアも見てみたのだが、2010年のところに

2010年6月15日 ニューヨーク株式市場が崩壊し、世界経済が危機に陥る。
というものはあった。

しかし、このウィキペディアの記述自体が実はウソである。

ウソという言い方も過酷かもしれないが、説明を加えるとこういうことになる。


ジュセリーノ(の予言)が日本に紹介されてもう三年以上が経つが、ジュセリーノはその間にこのような株式崩壊の予言をいくつもしているし、そのほとんど(註1)がすでにハズレている。

最近のでいうと昨年2009年度の年間予言の中には10以上のこのような「通貨危機」であるとか「国家破産」の予言があるのだが、どのひとつをとってもマトモに当ててはいない。これが事実なのである。

それどころか、ジュセリーノの予言のどこを見ても昨今深刻な問題として世界的にニュースになっているギリシャの金融危機の予言はない。

これが大きな事実である。もしジュセリーノが本当の意味での「予言者」ならば、このギリシャ金融危機の予言ぐらいは公開しておいて欲しいところである。

まあジュセリーノはこのようにして自分がただのニセモノの予言者である証拠を着々と積み上げているだけのハナシだ。

それにしても自分が情けないなと思うのは、ウィキペディアのこのジュセリーノ・ダ・ルースの項目の執筆をした人たちのことだ。

この項目の備考欄にこのようなことが書かれている。


現状は逼迫しているが、『未来からの警告』(p316)では2010年6月15日と記されている。

バカじゃないの。なにをして「現状は逼迫」なのでしょうか。その事実というかソースはなんなんだろう。ここはぜひとも提示してほしいところである。ちゃんとしたソースがあるのならね。

このような記述がいつまでも放置されていて、それに対して何も感じないというのはものすごく恥ずかしいことなのではないのか。

それに気づく人は誰もいなかったのだろうか。

というか「ウィキペディアって何?この予言者の出した本の宣伝のためのものなの?」みたいな呟きをしてしまう自分である。


[註1]「みち☆まり」さんによる。2009年の年間予言に「アルゼンチン発の南米の金融危機の可能性」(時期指定なし)というものがあって、それならば「まあ外れではないという程度の当たり」だそうだ。もちろんそれ以外の(期日指定の)金融危機の予言は全ハズレ状態。

[註2](他のブログで書いていることなので)御存知の方もいるかもしれないが、自分はウィキペディアの編纂をしたり、あるいは項目を新たに立ち上げることもある「ウィキペディアン」でもある。依頼をうけたり、あるいは自発的な意思でこのようなことをもう9年近く(つまりウィキペディア日本語版が立ち上がったころから)つづけている。こんな自分が言うのだから聞いて欲しいのだ。ウィキペディアの「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目はおかしなことになっている。他の同様のもの、似たようなものと比較してほしい。というかジュセリーノ・ダ・ルースの項目の執筆者たちは反省して、この項目をもっと事実主義に根ざした記述に改めてほしいと切に祈っている。

ウィキペディアによる「ジョセフ・マクモニーグル」の説明


[追加]

これもまた別のブログに(しつこいくらいに)書いていることになる。

最近のウィキの記述内容に対して(あるいはネット記事にもあてはまると思うのだが)時に全面的な信用というものは置いていない。

自分はウィキ執筆に臨んで「オマエにそれをやる資格はあるのか?」と常に自問自答を繰り返している。

もちろん、それは「自分のすることは公共の利益に適っているのか。反してはいないか」という過去の自責と自省・反省というものがあるからだ。

だから今までも自分はウィキに関しては(依頼をうけたものは別にして)自分にその資格なしと断じたものについては執筆も項目の立ち上げも慎んできた。

ウィキの「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目に対しても同じことで、自分がこの項目の執筆を謹んできたのは、自分が自分の名前でその項目に手を入れてしまうとどうなるかがわかるからだ。

まずまちがいなく頻繁なる「書き換え合戦」が起きる。そしてそれは多くの利用者の利益に反することにつながってしまう。

それがわかっているから自分は「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目には手を入れない。そういうことだ。

というか、自分が「ウィキで書かれていることを丸呑みにするな」といつも以上に強調するのは、自分がウィキの執筆者として今まで何度も心無い執筆者にイヤな目に遭わされてきた過去があるからでもある。

はっきりいうと、最近のウィキペディア執筆者の質というものはかなり落ちてきているし、それは(最近の)ジュセリーノの項目を見て感じることである。

[追記2]

何故「現状は逼迫しているが、『未来からの警告』(p316)では2010年6月15日と記されている。」と備考欄に書き込むことが「バカなこと」になるのかの説明を求めるコメントが何通か来た。

んー、こういうことまでも説明しなければならないのか。しかたないのう。

それでは説明しよう。まず、ジュセリーノのこの予言は何についての予言であるのかということが重要になる。

言うまでもない。ニューヨーク株式市場の崩壊についての予言である。ジュセリーノのこの予言は「ニューヨークの株式市況が崩壊して」それがきっかけとなって、結果として「世界経済が崩壊する」と言っている。原因と結果でいうのならば、原因がニューヨークの株式市場であって結果が世界経済の崩壊である。

では逼迫(ひっぱく)するというのは何のことなのであろう。言い換えれば、主語は何だということだ。

当然この予言は「ニューヨークの株式市場についての予言」であるから、ここで逼迫しているというのは「ニューヨークの株式市場」のことでなければならない。もし逼迫していると言っているのが「世界経済の崩壊(の危機)」のことならば、この予言の備考覧にあえて書くことではないだろう。そういうことを自分は指して「バカなこと」と言った(書いた)のだ。

また、原因と結果の関係で言った場合に、もし「世界経済危機が原因でその結果ニューヨークの株式市場が崩壊」だったら、それはもうジュセリーノの予言とはまったく関係のない出来事が起きたということになるので、そもそも備考欄で「(世界経済が)逼迫しているが…」の記述は必要ないということになる。

要するに、(主語が)どちらの場合にしても、備考欄に書かれている「事態は逼迫しているが…」以降の記述はまったく不必要なものになる。

だから自分は、この記述の主が「ニューヨークの株式市場が崩壊して世界経済が危機になる事態が逼迫している」と見るのならば「そのソースを出せ」と言った(書いた)のだ。

いったいどこに「ニューヨーク株式市場(崩壊)がきっかけとなり世界経済が危機になる」という事態が逼迫しているというソースが存在するのだろう。

オカルティストのHPとかブログなのか、それとも2ちゃんねるの書き込みなのか。

自分はウィキペディアにこのようなソースの存在しないただの妄想を面白がって書くような奴は即刻退場すべきだと考えている。

もちろんそれは上でも述べたとおりで「何が公共の利益なのか」であるとか「何が公共の利益に背くか」と常に自問自答しながらウィキペディア執筆をしているからであり、そういう面白がてらにウィキペディアに無責任な書き込みをする人間のせいで迷惑を蒙ったことが何度となくあったからだ。

2010年5月3日月曜日

100503 三年経って変わったことと全然かわっていないこと

定期的に同じようなことを書いているが、今尚止むことなく同じような内容のメール・コメントが寄せられて来るためだ。御容赦願いたい。

さて、自分はなにもマスコミで取り上げられて自分が有名になったり、金儲けの為にこのブログをやっているのではない。また、本を出そうとかそういう狙いがあったわけでもない。

このブログ「ジュセリーノ予言の真実」は、自分が(軽い動機で)2007年1月に書いたジュセリーノに関する記事に対して多くの人たちから寄せられたメールやコメントに困惑したところからはじまった。

多くの人たちが2006年12月に放送したテレビ朝日の番組を見て、このジュセリーノの予言というものを本気で本物だと捉えていた。そしてジュセリーノなるブラジル人の口から発せられた地震の予言に対して不安や恐怖というものを感じていたのである。

そして、自分が最初にジュセリーノの予言について書いた記事とは、ジュセリーノの予言そのものに対する検証・批判ではなくて、放送されたテレビ番組のウソを暴露するものだったのだ。

その最初に書いた記事を読んでもらえればわかることだが、要するに、自分が記事で書いたことは「あの番組はウソだらけだからまともに受け取るな」ということだった。

そうしたら、それからしばらくしてからだが、自分のところには沢山のメール・コメントが来るようになったのだ。

そのテレビ朝日の番組を見て不安に駆られてジュセリーノの予言について知りたいとインターネットで検索をしてこのブログにたどり着いた人たちからの感謝のメール・コメントであった。

その届いたメールの中には「(2007年の)三月に東京を脱け出て田舎に戻ろうと思っていました」であるとか、「あれからもう寝れなくて困っています」という体調不良に悩む人、「地球と人類の未来に絶望して中絶することも考えていた」という妊娠中の女性からのものもあったくらいだった。

これも時々書いていることだが、自分の周囲には、かつてこのような(日本の)マスコミがでっちあげた「予言」の第一ケースであった「ノストラダムスの予言」の間接的な被害を蒙った知人友人が何人もいた。

オウムによる地下鉄サリン事件の被害者であるとか、あるいは家族がオウムに入信してしまい、そしてそこから引き離すのに苦労したという人たちが身近にいたのだ。

それだけではない。その地下鉄サリン事件が起きた1995年の三月ころ、自分は地下鉄を通勤利用する人間であり、事件のおきた3月20日も早朝6時ころに代々木上原駅から千代田線で北千住駅を利用している。

「たられば」は禁物だが、自分もまたあの地下鉄サリン事件の被害者になっていた可能性だってまったくのゼロではないのだ。

送られてきた多くのメールやコメントをひとつひとつ見てゆくうちにそのときのことが胸をよぎったのだ。

で、自分の出来ることとはなんなんだろうというようなことを考えはじめて、そして考え続け、考え抜いて出した結論、それが「今度は日和らないでおこう。黙って見過ごすのは今回はナシにしよう」ということだ。自分はそういう決断をした。

それがそもそもこのブログをジュセリーノの予言という嘘というものに特化させた理由だ。(2010.05.03)

2

いつぞやここでも取り上げたコメントだが、「(ジュセリーノ予言の嘘を止めたいというのならば)ブログなんてやってないでテレビ局や(本を出した)たま出版にメール出すなどして直接文句を言えばいいじゃない」という意見を頂いている。

最近またもこういった感じのコメントが来るようになった。

んー、どこから説明すればいいのだろう?

誤解を解くためにこれから言っておこうか。

まず、自分はこれらのテレビ局と出版社に対してまったく何も言わなかったというわけではない。

まず、2006年暮に「超常現象スペシャル」というジュセリーノを紹介した番組を放送したテレビ朝日に対して(計)二通のメールを送っている。

そのうちの一通はこのブログでその文面を公開しているとおりで、ジュセリーノの予言だけではなくて番組で取り上げた「気の存在」を証明するとした「科学的な実験」というものが、実は画面合成によって作られた捏造であることも含めての番組に対する批判である。

そしてここでは公開はしなかったが、もう一通は合名によるもので「ジュセリーノの予言」は実はブラジルではすでにその虚構が暴かれていたこと、そして番組ではジュセリーノが公表した予言のほとんどが外れていることを隠して作られているということを告発するものである。

テレビ朝日側からはなんの音沙汰もなかったのだが。

また「たま出版」に対しても都合3通ほどの警告のメールを送っている。

2007年3月に出た「未来からの警告」の中にある嘘(ジュセリーノの嘘だけではなくて監修者である韮澤潤一郎の嘘だ)について、読者に対して謝罪と訂正の必要があるということを説いたものだ。

これもまったく無視されたが。いや、無視するどころではない。なんと韮澤潤一郎(敬称略)はこういう内容のメールが何通も届いていたにもかかわらず、これらのメール手紙類をなかったこととして、それどころか「自分は一年後にそれを知った」という新たなウソというものをついているザマである。

こういう人たちに対してメディアテラシーを説くということが、実はものすごくむなしいのだということだけは痛切に知っただけでも収穫はあったとすべきなのかもしれないが。

(これは繰り返しになるが)少なくともこれだけは言っておく。

自分はこれらのテレビ局・出版社に対して直接何もいわなかったというのでは決してないのだ。
(2010.05.05)

3

もちろん黙殺されたからといってそれを悲しんだりあるいは怒ってみたりしたというのではない。そんなのははじめからわかっていたことでもあるし。

ただ自分としては彼らにわかってもらいたいことはあった。

彼らのやっている番組作りや本づくりの手法というものはすで時代遅れだということをだ。

それこそもし20年も前ならばこういうオカルト番組もある種の「半フィクション物」として成立はしていたしそれなりに視聴率の取れるものだった。これは事実だ。

でもこの2000年代にこういった番組の手法はもう通用しない。そういう時代になったのだ。

彼らはそのことを知らない。あるいは認めようとはしないようだ。

そのいい例がひとつあった。いい例というのもへんな言い方になるが。
(2010.05.07)


4

昨夏放送された「超常現象スペシャル」のシリーズ第何弾目になるのかはしらないが、その番組の中で扱われていたオカルト物件について自分はこのブログで番組の嘘ばらしのようなことをした。

特に、その中のひとつである「ミサイルを撃墜するUFOの映像」というものが、実はただ単に目撃談をもとにして再現されたアニメであることを暴露した記事についてはかなりの反響があった。是非両論のだ。

非難する論調のメール・コメントをより多く頂いた印象がある。

単純に「所詮お笑いでしょうこんなの。なのに何故そうムキになって暴露したり否定したりするのでしょうか?」というようなものから「完全な営業妨害行為だから記事を削除すべき」というようなむしろこちらが「なんで?」と聞きたくなるような感じの強い憤慨を示したものとかそれはいろいろあった。

90713 笑えないお笑い番組 テレ朝の超常現象特番のことだが 

その記事の中でも繰り返し強調したことなのだが、自分が言っているのは放送された番組が「お笑い番組としては失格だろう」ということだ。そして何故お笑い番組として失格なのかを懇切丁寧に説明したつもりであった。

これは伝聞のまた伝聞でしかないのだが、どうも、この記事がそのテレビ朝日の番組関係者の目にとまり、この記事に対して激怒したらしい。[註1]

もしそれが事実という意味で本当のことならば、つまりその記事を見て激怒したというのが事実だったならば、それは非常に喜ばしいことだと自分は捉えている。[註2]

何故ならば、それ(彼らを怒らせること)が自分の目的のひとつでもあったからだ。

何故そんなことをするかというと(言うまでもないことだが)番組の内容の向上に繋がればと思うところがあるからだ。

要するに、このシリーズ番組を再び(本当の意味での)お笑い番組として再生させるきっかけになればということなのだが。まあかれらにすれば大きなお世話といったところなんだろうが。
(2010.05.08)


5

とにかく昨夏放送されたその番組を見てわかったこと、それは彼ら(オカルト番組を作る人たち)はまだ全然懲りていないということだった。もしかすると、彼らはある種の自家中毒に陥った中毒患者と同じなのかもしれない。

自分はなにもオカルト番組がいけないというつもりはないし、言ってもいない。

ただ、すでにネタバレしているような、真相が知れ渡っているような古いオカルト物件を知らんぷりして再利用したり、番組側が自分の手で「インチキオカルト」をでっち上げるのは明らかにモラルに違反しているだろうし、それで「全然笑えないお笑い番組」にしていることを指して「失格だ」と言っている。

それを即刻改めよと強く主張しているのだし、それが伝わらないのならば、このような強行手段(つまり本来ならば度の過ぎたようなネタバレをすること)も取るよということなのだが。

果たしてこれはいつまで続くのかそれは自分にもよくわからない。わからないがこのようなはなしも漏れ伝わってきている。

昨夏放送のその番組では、放送直前になって突然カットされたビデオシーンというものが大量にあるというのは自分も知っていたが、その内容を克明にリポートしてくださった方(もちろんテレビ朝日の関係者の方である)がいたのだ。

それを見て、そしてそのあと朝方のニュースでマスコミの囲み取材に対して、うつろなまなざし、震える声で「五月決着」を繰り返す鳩山由紀夫の顔を見ると、世の中はずいぶんと困ったことになっているんだなというようなことをしみじみと感じている自分である。(つづく)





[註1]それどころか、実は自分はこの番組の出演者・番組関係者からメールやコメントを貰っている。

[註2]彼ら、つまりテレビ朝日の番組制作の当事者(オフィス・トゥー・ワンという番組制作プロダクションの関係者である可能性を含めて)がこのブログの存在を知っているというようなことは前々から伝え聞いてはいた。今にして思えば、思い当たるHNの人たちもいたし、その内容からも「ははん、これはもしかすると内部の人間からのコメントだな」と感じるようなものもあったことはあった。というのも、何を勘違いしたのか、後に日本テレビで放送されたみのもんた司会の特番の内容についてもふれていた同一HNのコメントもあったからだ


※追記※

(記事を出してから)何通かの「番組関係者」を名乗る人からのメールがあった。ほとんどのメールドメインがwebメールなので果たしてすべて本物なのか、どれが本物なのかかどうかは今の時点ではわからない。というのも、それらのメールに書かれていることを並べると、そこには大きな矛盾がいくつも存在するのだ。

まあ、ここでそれらのメールを公表するのはルール違反にもなるし、自分の信義にもかかわることになるので、あくまでも「事象」として取り上げるとするが、こんな感じだ。

あるメールには「番組制作は(ブログで書かれていることぐらい)わかっているし、エンタメ(=お笑い番組という意味だろう)の方向をだしている」と書かれており、一方、別のメールには「(UFO映像が再現アニメであることは)ブログで指摘されて初めて知った次第です」と述べている。

まあこれをどう考えるのは非常に難しいことだし断定はできないだろう。

単純に考えれば、どちらかがあるいは両方ともに番組関係者を名乗っただけのニセメールの可能性ということになるだろうし、そこのところは今の段階では断言はできない。

しかし、ところがこういう矛盾した内容になる番組関係者を名乗るメール群であるが
「立場を越えて」というかなんというのか、共通して書いてきていることもあるからまた困る。まあ困ることでもないのだけれど。

なにかというと、それが前述した「番組製作のトップはこのブログの存在をウザがっている」ということだし「あるいは怒って(激怒と表現したものもある)いますよ」ということなのだが。

まあだから自分としても「もし本当ならば」という前提で「それが事実だという意味で本当のことならば、つまりその記事を見て激怒したというのが事実だったならば」みたいなまどろっこしい書き方をするしかないし、その上で「それが本当ならば非常に喜ばしいことだと自分は捉えている」みたいな、書いている自分さえも何を言いたいのかがよくわからないような書き方になるのだけれども。