2007年8月25日土曜日

070825 予言者の看板

 
おかげさまで自分がこうしてこのブログでやっていることに対して多くの方からご理解いただけているという実感というものを得られるようになった。

やっと最近になって自分にもそれが納得ができるくらいのところまで来たという気がしている。

最初の頃は酷い物だったが。あからさまに「お前も所詮金が目的なんだろう」とか「ジュセリーノを利用して有名になりたいのだろう」などと書いて寄越す人があとを絶たなかった。最近は随分と減ってきたが。

このブログでジュセリーノをネタにしてもちっとも金にはならないし、それどころかむしろ赤をこいているくらいだというのに。

それに「ジュセリーノを利用して有名になる」なんてそれこそ予言なんかをまともに信じているような人間が抱きそうな幻想だね。

金もうけのためにならもっとほかにでもいくらでも方法はあるし、有名になるためだったら他の別の(たとえば江原批判とか細木批判とかの)方法をとったほうがもっとてっとり早いはずだ。誰が知名度の低いブラジルの予言者なんかを利用するかね。

こんなことを書いてくるような人には残酷な現実だが、この日本においてはジュセリーノなんてマクモニーグルとかジョン・タイターに較べれば比較にならないほど知られていない。

そんなこと普通の本屋とかコンビニにいけばすぐにわかることだ。ツタヤレベルのちょっとした本屋にならばマクモニーグルやジョン・タイターの本は置いているけれど、ジュセリーノの本を置いている書店は極めて少ない。マクモニーグルの本が全国でのベストセラーランキングの上位に顔を出したという話はたまに聞くが、ジュセリーノの本が全国でのベストセラーになったなんていう事実は聞いたこともない。ジョン・タイターの本なんてコンビニで売ってるんですぞ。(そのことには別の意味で自分もぶっとんだけれども)
これが現実というものなのである。これがジュセリーノの現実世界でのわが国日本での正当な評価というものなのである。

批判の対象としてブログに何かしら書いてより多くのレスポンスが欲しければ、もしそれが目的ならばだがジュセリーノなんて無名の予言者なんて相手にしないのが商売人としての才覚というものになるであろう。

だから、自分が「ジュセリーノ予言の嘘」についてこうまでしつこく批判を書きつづけているのは決して金のためでも有名欲なんてもののためでもない、というのは言うまでもないことだ。

それ(ジュセリーノの予言)が「この世にあってはいけない、不必要な恐怖を与えるもの」「嘘やデタラメで塗り固めた予言もどき」だからである。
そんなものは無いほうがいい。そんな嘘予言を撒き散らす輩(やから)がいたら、そんなもの真に受けてはいけないし、むしろ嘲笑の対象にするべきなのである。そのための理論武装である。

そのために一番良いのは「ジュセリーノについて誰かかが本当のことをネットで調べようとしたときに一番信頼のできる情報を目につきやすい場所において置く」ということだ。誰もそれをやらないというのであれば自分がやろう。そう思ったのでそうしたのである。
そういう意味で自分のやってきたことはほぼ成功してきているといってもいい。
それでも「廃壕」の中で今尚自分らの敗北を認めたがらないという馬鹿どもはいることはいるのである。彼らは「10月に阪神地区で大地震」が来ることを待ち望んでいたりする。それが過ぎて何も起こらなかったときのために「あれは阪神タイガースに関する予言」だったのだという言い訳を準備しながら(笑)。

しょうもない連中だとは思うのだけれども、これもまた現実というものなのだろう。
それにもし、ジュセリーノが本物の予言者だとして、もしジュセリーノが予言したことがもし本当に彼の言うとおりに成就していたのならば、いまこのような状態にはなってはいないはずだ。

日本でも連日連夜マスコミでジュセリーノについてその情報を流しまくるだろう。それこそ風評被害もへったくれもないはずだ。「ジュセリーノの予言は嘘」などと書きつづけている自分の方が嘲笑の対象となっているはずだ。

そうなってないのは何故なのか。ジュセリーノの2006年の予言について彼ら口をつぐんでしまうのは何故なのか。

そのことはもっと真剣に考えて、そしてそれから「ジュセリーノの予言」であるとか「予言者ジュセリーノ」などということについて書くなりなんなりしたほうがいいのではないか。

でなければ最初から「予言者」としての看板をとっぱらって宗教的な存在としてのみジュセリーノについて書くなりしたほうが読むほうは納得してくれるはずなのだが。
あえて挑発的にこんなことも書いてみたが。