2007年7月20日金曜日

070720 韮沢コラム86に対する批判

※このページは携帯端末でご覧になっているかたにはわかりづらい構成になっています。予めご了承下さい。

これからここで自分が展開するのは「たま出版」のHPに不定期連載されている「韮沢潤一郎コラム(通称:韮沢コラム)」の07.07.12付けの「86」に対する批判になる。

前回のコラム(85)に対する批判というか突っ込みは必要最小限と思われる部分だけを引用した。それが読者へのサービスとリンク先に対するマナーの両方に対するぎりぎりのところだと思ったからだ。

しかし今回は引用そのものを控える。その理由、端的に言えば「どこがどうした」というような部分的な批判では済まされないレベルのものだからだということなのだが、だからといって全部を引用するのはいくらなんでも気がひける。

まあそれでこれを読んでいる方にはお手数をおかけすることになるのだが、下記のURLにあるコラムの文章を何度も読むとか、あるいはその部分をコピー&ペーストしてテキストに貼り付けてこの記事と並立して読めるような状態にするとかしてお読みください。リンクも張りませんですいませんが。

http://tamabook.com/SPNE/shop.cgi?iframe=./shop_html/home.html&height=700
(ここから更に進みます)


さてこの「コラム86」を読んであなたはどのような感想を持たれたであろう。

「編集って大変なんだね」とか「意外に苦労しているんだね」といった感想を持たれた方も多いであろう。きっとそうだと思う。というかこの文章はそういう感想を持ってほしいという願いを持って書かれたものだからである。それも目的があってである。

自分は、これは下手な例えになるのだが、
寿司屋で板前が客から「出すの遅いよ。しかも不味いよ」と文句を言われたときに「申し訳ない・・・そのお客さんが口にした寿司のネタ、実はあんまり良いものじゃなくて。海が大時化で新鮮ないいのが入ってないみたいで…それでいろいろと手を加えてみたんだけど…」と言い訳されたような不快感があったのである。

要するに、私が受けた第一印象は「自分が手がけた商品の成立の内幕をバラしておいて、原因は自分のところにあるのではなくて他のところにあるのですよという言い訳」だった。それをお涙頂戴ばりに語っているだけでしかないよな。ということなのだが。

違うでしょそれは。問題なのは-問題にすべきなのは-自分のその加工(編集)の技術であって、決して原本に責任があるのではないということだ。

殆ど自家出版の日記のような構成」だとか「そのままでは国内での出版が出来る仕上がりではありません」だとかそういう侮蔑とも取れる表現はしてはならないし、だったらその本を売る前に、あるいはせめて前書きの段階で客にそのことは言っておくべきであって、今更言うことではないだろう。

(しかしこのふたつの侮蔑、なにもジュセリーノの本の原本にではなく「文芸社」の本に対していつもいわれている酷評そのものでもあるのだが。まあそれは置いておくとする。)

でなければ絶対にそんなことを口にするなよなという怒りもあった。
それがその本を買った客に対する「礼儀」というものなのではないだろうかと思うのである自分は。

もっと賢明な方法、それはそんな(苦労と手間のかかる)本の翻訳本などは出版しないでおく、ということなのでもあるが。

あるいはせめてはもっとプロフェッショナルな仕事の出来る編集者を連れてくることなのだが。

もちろん繰り返すけれども自分はこの「たまの本」は買っていない。客ではないということだ。だからこのような文句を言うことは本筋からすれば「お門違い」と逆に文句を言われてしまうのかもしれない。

それでも、自分ここの商品(本)については昔何冊も読んでいるという実績がある。それだからこそ「事前予言」ではないが本が出る前から同じこと(まあ買わないのが賢明だというようなこと)を言いつづけているのである。

そして実際にこの本を買ったという人からその内容を伝え聞いたり、見出しになったもの、図にしたものなどを見せられて「酷い内容だった」とか感想を聞かされているである。

なにが拙いのか。まず第一にだが、[監修者註]というものが沢山入り過ぎ。無駄に長くて場合によっては非常に邪魔臭く感じるということがあるようだ。

たとえば、(これはわざわざ手打ちしたものを送って来た方がいたのであるが)その本の176ページにこんな個所がある。2002年バリ島での爆弾テロやバリー・ホワイト(歌手)の死に関する予言についての記述に突然こんな監修者註が挿入されているのだ。

なぜここに歌手の病気が出てくるのだろう。おそらくバリ島のディスコで彼の曲がかかっていたのをジュセリーノが夢で見て、その歌手の身の上に飛んだのではないだろうか?

全然関係ないし、その推理はどう考えてもおかしい。どうせだったら「バリ島」と「バリー」というダジャレか?という推理のほうがまだ納得できるのではないか(そんなわけないかやっぱり)。

これでは読まされた側からするとそれこそ
「なぜここに必要もない監修者註が入ってくるのだろう」といいたくなると思うが。

なんにしてもこんな「監修者註」だったらなくてもいいし、というかないほうがマシだろう。

この本にはこのような「韮沢的推理」というものを展開したり、どう考えても無駄な[監修者註]が何箇所もあるのだという。(その人の感性の問題もあるので一概には断罪はできないが)

また、本文であげられている予言ひとつひとつに対して「~はこうだった」というような検証が入っているというのが、本文部分の流れをぶった切り、この本を読みにくいものにしているのではないかとも思う。

これがこの本の文章部分での致命的な構造的な欠陥と言い切れるのではないか。(VANさん)

もっと良い方法はいくらでもある。
たとえば、ページを上下分割の二段組構成にして、そういう[監修者註]であるとか、あるいは予言の検証部分をわけるという方法がある。

そうすれば、この本(原本)の文章の本来の姿を損ねることなく、なおかつそれをレフェリング(=論文の審査という意味)するという日本の読者ならではの特権を得ることもできたはずなのである。つまり、ジュセリーノの予言を信じないというような人たち(自分は除く)にもっと売れた可能性もあったはずなのである。

あるいは、後からジュセリーノから送られてきたという原本未収録の新しい予言というものがあるのであれば、それは巻末にまとめて別章にして「日本語版特別編集付録」とでもしておけばよかったのである。そしてそこで思いっきり自分の推理であるとかを好きなだけ載せるという方法もあるのである。

そしてそのほうが編集も随分とスムースに出来たはずだ。しかしこの本はそれをあえてしなかったのではないかと思う。

これが罠なのではないか。

そんなことをすれば(すっきりとした体裁にしてしまうと)この原本が出版された時点での2006年の残りの月予言というものに触れなければならなくなり、それがほとんど大外れしているという事実についても触れなくてはいけないこととなるからだ。

つまり「的中率90%」というのが大嘘だということがわかってしまうということになるので出来なかったのだなという推理も単なる邪推ではない(VANさんからの指摘)ということになってしまう。

だからこのコラムの前半部分はその事実から目を反らすために書かれた「言い訳」だなと自分も強く感じるのである。

さらに後半部分になると、自分はこのコラムが掲載されたその本当の理由について、そのあくどい(したたかと褒めることもできるのかもしれないが)やり口というものに気がついて本気になって腹を立ててしまっていた。

以前、「このコラム(をコピーしたものを)を読んでいて途中で気分が悪くなった」と書いたのはそういうことだ。

ところが何か勘違いしたのか「たとえ悪くなる未来だとしてもそれからは目を逸らさずにしっかりと受け止めることが重要です」と励ましのお言葉をメールで送って来ていただいた方がいた。ありがとうございます…としか言えないけど。

さて話を戻す。このコラムが掲載されたのが「7月13日、日本で大きな地震がある。多くの死者が出る」というジュセリーノの予言のその前日の12日であるということだ。

はやい話、これは「外れてもそれはあくまでもジュセリーノの予言のシステムに原因があってそれを言いつづけていた自分の責任ではない」という逃げ口上だからだ。

つまりジュセリーノの予言のシステムに対して「外れてもしかたがないのだ」とする彼なりの新しい解釈を追加してみせているのである。

関係ないだろう。この場に及んで。ジュセリーノ自身は「夢で見た光景と届く声」をもとに予言している、といっているのだから。当ろうが外れようがそのままそれはジュセリーノの責任である。今までそのやりかたで的中率90%とか言っていたのはどこの誰なんだ。

そんな一方では当ってももう一方で外れる可能性のある予言のシステムではどう頑張っても「的中率90%」にはならない。

つまりもっと露骨に言うと、彼は「的中率90%」というジュセリーノの商品価値と彼自身の保身を天秤にかけて後者をとったのである。


さらに自分としては「なんだそりゃあ?」といいたくなるような個所があったのでそれについても書く。

この9月にジュセリーノを扱うテレビ番組が放送されることが決った(この決ったということに関しては別の情報が自分のところに来ている)けれども、『風評被害』の怖れがあるので予言については放送はされないかもしれないと言っている個所である。

とてもではないが、すでに昨年末のテレビ番組で多くの人の心に不安の影を落とすような大きな嘘をついている人間の言葉とは思えないんだが。

いやそれよりもだ。突っ込みどころというか「オイ、ちょっと待て」といいたくなったのは「ジュセリーノの予言からそういう『風評被害を及ぼす怖れのある個所』を除いたら一体何が残るのだ?そんなもので数字が取れるのか?」という素朴な疑問である。

ひょっとしてそれってそのテレビ番組には「ジュセリーノの予言のコーナー」はなくて、自分がテレビに出るだけということなのか?という疑問なのだが。
実際どうなるのであろう。

こんなことを楽しみにするわけにはいかないが、これで目が離せなくなったなというのは確かである。


以上である。これでも自分が本当に言いたいことの0.5%も書いていないのだ。あれどこかで聞いたようなフレーズだけど。

そういう私なりの「解釈」を頭に入れてから、もういちどこの「韮沢コラム86」というものを頭からお読みいただきたい。