2007年7月19日木曜日

070719 FOREPLAY/LONGTIME

ボストンか。

(地震のあった)16日以降にどっと増えてきたのが「私はたまBBSを利用しているものですが…」という断り書きをしているメールやコメントである。

本当に鮮やかなくらいに16日を過ぎてから一気にどどっとくるようになった。

内容は千差万別である、といいたいのだがやはり大きくふたつに分かれる。

ひとつは「ジュセリーノの予言は当ったのだからもうこのブログは辞めろ」というもの、もうひとつは「まずなんにしてもジュセリーノの本(たま出版から出ている本のことである)を読んでからにしなさい」というもの。

どちらにしても、やはり「誤解をしている」というか、「わざとその部分については目を塞いだまま書いて寄越しているな」というものばかりなのであるが。

「当ったのだから辞めろ」という言い草は二重・三重の意味で大きな誤謬を犯している。

もちろん「当ってもいないし」それに「当った」からといってそれがこのブログを辞める理由にはならない。

さらに「当ったと思っているのはひょっとして16日の地震だけのことを指してはいないか?だとすればそれ以前の、見た目にも大外れの数々の予言については無視していいのか?」という新たな疑問を産むだけだということに気がついていない(振りをしているだけだ)からである。

次、その「まずなにはともあれジュセリーノの本を読んでから批判するなりなんなりしなさい」という意見であるが、それについてはずっと前からその「自分がたまの本など読む必要はない」理由については書いて来たつもりだ。

まず第一になによりも「たま出版」から出たその本がマリオ・エンジオの「O Homem Frente das Profecias」に追従した完全訳本であるのらばともかくもまったくもってそうではないという事実である。

もちろん翻訳物であるので多少のブレのようなものならばそれは容認する。しかし「たまの本」は完全にそういうルールすら無視しているのだ。

自分は「たま出版」から本が出る以前からそうなる可能性が高いと書いて来た。なぜならば過去「たま出版」から出された「韮沢潤一郎監修」とついた(原著のある)訳本はそういう改竄をされたものばかりだったからである。

ここにいる若い層のひとたちには通じないのかもしれないが「MJ-12」であるとか「ハチスン効果」であるとか「ノストラダムス」であるとかそういうオカルト本において今までどれだけの「嘘情報」を流しつづけてきたのかを知っていれば決して根拠のないことではないのである。

そして現実にたま出版から出た「来来からの警告」という本においてはそういう部分が数多く指摘されている。自分もそのことについては何度となくここで書いたつもりだ。

まずなんにしてもだ、そういう原著との違いというものがあるのであれば、そのことを第一に前書きかなんかでその理由であるとかの断り書きを入れるのが最低限のマナーというものであろう。たまの本はそれすら怠ってしまっているようなのである。(VANさんからのご指摘)

これでは「純粋にジュセリーノの本を読みたいと思っている人に対する裏切り行為」になるのではないのか。

以前、マイアミヘラルド国際版編集部から届いたという手紙に対する疑惑について書いたところ、たまから出た本の(原著と較べたときの)省略部分についての詳しい検証をしたものを送っていただいた。

それについては今までは確証がなかったのでここでは取り上げなかったのだが、要するに2006年の予言とブラジル国内で起きた事件に関する記述で、事実とまったく異なる個所、そして外れてしまった予言についてすっぱりと落としたということだ。

そういうことをしてある本なのである。

自分がやらなければならないと思っているのは、まずはなによりも「ジュセリーノの予言」に対する批判である。「ジュセリーノの予言」=「たまの本に書かれているジュセリーノの予言」ではないのである。それで

今自分にとって必要な本があるとすればそれはまず原書の「O Homem Frente das Profecias 」の方だ。自分がやっているのは、目的としているのはまず「ジュセリーノの予言の批判」である。いくら「たまの本」に書かれていることを批判してみてもそれはつまるところたま出版に対する批判であったり、あるいは韮沢潤一郎に対する批判でしかないことになりかねない。

その可能性はものすごく高いということも書いて来た。であるからして、自分は原書を入手したあとでその不完全な訳本としてそのたまの本を買うなりなんなりして手に入れようと思っている。地道だがそのためにちょっと入手に苦労はしたが葡日・日葡辞典であるとかポルトガル語の参考書は手許に置いている。(0427 その4 FAQ)より


と書いたのである。その基本的姿勢は今でも変わっていない。

また、それだからこそ、そののちに「早くたまの本を読んでどんどん批判してください」みたいなメールに対しては、それはジュセリーノ批判とは別のことなるという前置きをして

「自分が「たまの本」を買うというその目的はジュセリーノに対する批判としてではなく、たま出版に対する批判のために読んだり(そのために買ったり)する」とか「いずれは読むことにはなるのだろうけれどそれは先のことになる」と書いているのである。

そうしたところ自分が「2冊買うとなると」書いた部分に対して

>2冊も買ってどうするんですか?保存用?プレゼント用?


というつっこみをしてきた人がいた。

なわけがない。だいたい贈ってどうする。そんなもの喜ばれるわけがないじゃないか(笑)。「2冊」というのはたまからでた本の批判のためには初版、二版と両方入手してその違い、つまり読者に気付かれずにこっそりと行なった改竄部分がないかどうかを調べようと思っているからである。

で、実はもうすでにそのたまから出た本に関しては手配は終了している。金も払っている(2冊で1500円)。あとは送ってもらうなり自分が東京に行ったときに取りに行くだけになっている。

しかし間違えていけないのは、これは「ジュセリーノ予言」に対する批判とはわけなければならないということだ。

で、なんのためにそんなことをするのかといえば、それはもちろん2004年にこのブログを本体のHPから独立させたときの目的である「反カルト・非オカルト」に適ったことだからである。

だから、その「ジュセリーノ」と「たま出版=韮沢潤一郎」が重なった部分における批判というものについては充分すぎるくらい表現・記述については気をつけて明確にしているつもりなのであるが。

また、だからこそこのブログを読んでいる方々にもご注意を申し上げるのであるが

絶対に「ジュセリーノの予言=韮沢発言」ではない。韮沢氏の発言をそのまま鵜呑みにしていると、それはいつのまにか「ジュセリーノの発言ではないもの」を信じ込まされてしまうという危険があるのである。

そして、そういう前置きで自分はこれから「韮沢コラム」というものを批判する。そう、実はこの記事全てが前書きなのである。長いけど。