2007年5月29日火曜日

070529 思わず笑っちゃったこと

【ジュセリーノ予言の真実 0529】 思わず笑っちゃったこと

前に、ジュセリーノの予言に関して、「有名人の死を予言していた」などというとリスキー過ぎてボロを出すだけだと書いたことがあった。

いろいろと聞いてみたり調べた結果なのだがまさしくその通りのようである。

ダイアナ妃に関するものとビートルズのメンバー関するものについてはブラジルでも既にいろいろなところでそのおかしな部分については書かれているらしい。特に、イギリスの新聞社(どこだ?)に送ったといわれている手紙には、ジュセリーノが常々「大切である」と言っているはずの公証所の証明もなにもないものらしい。そんなものを堂々と発表してなんになるというのであろう。

それ以外にも、有名人の死に関する予言部分もビックリすぎるくらい間抜けな記述が目立つ。

ここではふたつだけ挙げておく。話をきいただけで自分はそのおかしな部分にすぐに気がついたということであるからだ。

それはロックバンド、クイーンのフレディ・マーキュリーの死とそしてビージーズについての予言である。

なんとジュセリーノはこの最初の予言を1975年に手紙で送ったと言っているのだ。

1975年というとだ、クイーンが「オペラ座の夜」を発表した年である。
クイーンはこのアルバムと、シングル曲「ボヘミアン・ラプソティ」を発表してやっとイギリス本国でも認められるような存在になった。しかしとてもではないがまだ「スーパースター」とは呼べるような存在ではなかった。

同じようなこと、似たようなこともビージーズに関してもいえる。1975年というのは、ビージーズがRSOというレコード会社から「メイン・コース」というアルバムを発表した年でもある。

それまでビージーズというバンドは、どちらかというとフォークロック調のポップスバンドで、69年以降ははっきりいって一種の低迷期で売れていたとは正直言えないし、とてもではないが「スーパースター」とは程遠いような存在でしかなかった。しかしそのRSOに移籍すると一転ブラコン=ディスコ・サウンド・テイストに方向転換したというその記念すべき年なのである。

しかし、これは繰り返しいうのだが、とてもではないが75年当時「スーパースター」と呼べるような存在ではなかった。ビージーズが世界的な大ヒット曲「スティン・アライヴ」「ユー・シュド・ビー・ダンス」「愛はきらめきの中に」を立て続けに出したのは翌年の76年である。

つまり、ジュセリーノという人は、75年当時まだまだパッとした存在でなかったクイーンのメンバーのフレディ・マーキュリーと、やっと低迷期を脱したばかり(かどうかも怪しいころ)のビージーズのメンバーに関する予言の手紙というものを書いて送ったといっているのである。

なんでそんな「予言」をしたのか(笑)

問題なのは、その「予言の手紙」というものを「有名人に関する予言」だとか言って誇らしげに見せてしまうその時間経過無視の間抜けっぷりのほうだろうけれど。

むしろそれよりも「クイーンとビージーズは来年に大ブレイクするでしょう」とか書いておいたほうがよっぽど「予言」っぽく見えるのだが。

そこまで調べる余裕はなかったのか。

しかも、よりによってその「手紙」、最近メールで教えてもらったことなのだが、なんと「エルビス・プレスリーへの手紙」の中に書かれているのだという。なにそれ(笑)全然意味ないじゃん。というか送る相手というものを完全に間違ってる。

ここまでくるとジュセリーノの予言というものもまるで韮沢氏のテレビで披露しているギャグ(本人は大真面目らしいが)並の間抜けっぷりである。
「なにそれ、突っ込み待ちなの?」といいたくなるのである。

というか最初自分はこれもまた「たま出版」による一種のねつ造ではないかと思ったくらいだ。

(違うらしい。原書にもちゃんとある記述なのだ。それがはっきりしたのでここで取り上げることにした。こういう回りくどい手順を踏まざろう得ないのがつらいところである)

というか、そういう似たもの同士だからこそこうやって手を結んでしまったということなのかもしれないが。



追加
「予言者ジュセリーノの疑惑」P199 予言ワイドショー03の元となった記事がこれである。更新直後からこの記事に対する反応にはすさまじいものがあったのは事実。やはりこういう世界的有名人の死に関するもののほうが食いつきはいいようだ。これは今だから言えるが、実はこの記事を書いた直後に扶桑社と講談社webの担当だという人間から連絡があって、この記事で書かれていることを是非取り上げさせてくれと言われた。しかし、公表するべき媒体名やはなしを聞いただけではどんな記事になるのかもよくわからない状態だったのでいわゆる「名前だし」は断っている。結果から言うとこの自分の判断は正しかったということか。その後の扶桑社の「SPA!」と講談社の「週刊現代」がジュセリーノについてどう扱ったを見ればということだが。むしろ自分が情けなく感じたのこととは、こういう大手マスコミでさえジュセリーノのことを不真面目な興味本位なスタンスでしか扱えないという事実のほうだった。
それがあったためなのか自分のマスコミに対するスタンスは敵愾心を隠さないむき出し状態のものが増えてゆくきっかけにもなった。「てめえら絶対に許さねぇ」というまるで敗れ傘刀舟と同じような気持ちであったのだこのころは。