2007年5月5日土曜日

070505 宮沢賢治が夢見ていた「地球の温暖化」

【ジュセリーノ予言の真実 0505】
宮沢賢治が夢見ていた「地球の温暖化」

このブログでジュセリーノの予言を批判する文章ぎかりをブログに書いていると、ジュセリーノとは直接は関係はなくはないものの、このブログで俎上にするのをためらうようなことも多い。

ひとつはプラシバシーと関わってくるような話題である。
これのことを考えて結局は記事にするのを断念したものが・・・、そうだなぁ20本近くあるのだ。
本人に許可を得られればすぐにでもここに書きたいものもあるし、ご本人や遺族の許可を取りたくても取れないものもある。

もうひとつは、誤解を招かないようにと慎重に書こうとすると、ものすごく長い文章になってしまい逆に収拾がつかなくなるおそれのある話題である。

しかし、以前から下記ような主旨でジュセリーノ擁護をしてくる人たちがいる。
最近またもや目立ってきた。ある意味、向こうも必死のようだ。

だいたいがこんな感じなのであるが
「温暖化防止を訴えているジュセリーノという人物の存在は、今この世界に求められている人間であり、ここで彼の予言の矛盾点をついていい気になっても、彼が目的としている地球の温暖化防止という部分には目はつぶれないであろう」というジュセリーノ擁護論である。

もう少しわかりやすく書くと、ジュセリーノの予言は外れることもあるが地球温暖化防止という「正しいこと」を訴えているのであるから、彼のような稀有の才能の持主はもっと称えられるべきである(批判するならそこまでも含めて批判してみろ。できないなら批判するなということだと自分は解釈したが)というようなことを言ってくる人たちのことだ。そういう人がいるのだ。

それもごく少数というわけでもないのだ。最初の頃(2月ころまで)のコメントを見て行くともっと多いであろう。

もちろんこの考え方はおかしい。
いくら地球温暖化防止を訴えていようが「偽予言者」は「偽予言者」でしかないからだ。

アメリカ映画で聖書の言葉を相手に吐きながら人を殺しまくる殺人者が出てくる映画があった。
また、ラルフ・ネーダーみたいな大企業批判を取り囲んだ警官相手に向かって一説ぶつ銀行強盗が出てくる映画もある。

もちろん映画の中では「おかしなやつ」という笑いを取るためにの人物設定である。

でも自分のところにそういうメールを送ってくる人間を映画の中のイカレた奴と同列にして笑ったりしていいのかというそうではないと思う。

それに彼らは決して自分を笑わせてくれるためにそんなメールを寄越したのではあるまい。

そういう居心地の悪い落ち着きのない気分にさせられるジュセリーノ擁護論ばかりを目にしていると、どう言ったり書いたりすればいいのかと考える時間も長かったのだ。

多少の誤解は招くかもしれないけれど、やはりこの類の意見に対して真っ向ものを言うとしたのならばどうすべきか。

前にも「疑似科学」のひとつである「水からの伝言」という波動の本を批判したときにも書いたことだが、何を目的とした手段なのかについてはよく考えなければならないということだ。

言い換えると「目的のために手段を間違える」というのはあるが、それと同様「手段のために目的を間違えてはならない。- その手段がなにを目的としたものであるかについてはよーく考えないとヤバいよ」ということは忠告しておきたいのだ。


日本の各地では(今でもだ!)水に向かって「ありがとう」と語りかけると水がきれいな結晶になったり「バカヤロウ!」と怒鳴ると汚い結晶?になると本気で主張している本を子供相手に語っているという教師がいるのである。(それでも一時期にくらべると激減している)

子供たちに向かって「ありがとう」という感謝の気持ちを持ちなさい、と教えるのは確かに教育である。

だがしかし、水に向かって「ありがとう」と言葉を掛けると美しい結晶になるということを教えるというのは教育にもなんにもなってはいない。単に子供に嘘を教え込むことでしかない。

これは「感謝の気持ちを持つ」ということの諸々の価値と、ありもしない「水の結晶」なんていうねつ造された嘘を結び付けただけのものである。

「水からの伝言」という科学的にみても間違っていることだし、危険な発想である「波動」という疑似科学を子供に向かって口にするような教師がいるのであるのならばそれは絶対に阻止されるべきだろう。

「嘘は嘘」 それにつきると思うからだ。


さて以下の文章は以前あるところに投稿という形で応募したものの没になった拙文をもとに書き直したものである。

没になった理由はあくまでも自分の文章能力のせいだと思う。
というかそう思いたい。

決して趣旨が読者の反感買いそうだからということではないと思っていることで自分を慰めている。

ジュセリーノ批判とは少しずれるが「これもまた…」の本来のテイストというかもともとの姿からすると、ど真ん中の文章でもあるのでここで記事にしてみた。
まあだから一種の原稿のリサイクルでもある。エコである。リユースなのである。

地球の温暖化防止には繋がらないとは思うが。

ジュセリーノの批判に直接関係する文章だけが目的という方は読み飛ばしたほうがいいかもしれない。



「宮沢賢治の夢見た地球の温暖化」

地球温暖化について中途半端な形でものを言ったりするととんでもないドツボにはまってしまうことがある。

北極の氷が全部溶けると海面の上昇で島がいくつも沈むであるとか信じている人は多い。
「シロクマが可哀想だ」と真剣に訴えている人もいる。
北極のアザラシがウィルスのために全滅する危険性を示唆していたテレビ番組もあった。

まあ、地球の温暖化を阻止しようとすることにはもちろん「意義」はある。そう思う。CO2(二酸化炭素)の大気への排出を減らそうという運動にも、そのこと自体を間違っているというつもりはない。

省エネルギー運動であるとか化石燃料(石油・石炭・天然ガス系資源)の使用に頼った現代の産業構造をドラスティック(急激)に質的に変換させようであるとか、地球の環境を守ろうという考え方についてもここでは揶揄はしない。

だが、現在地球上の各地で現象として見えている「温暖化の兆し」が、その我々人類が大気中に放出したCO2量が増えたためであるとの確かな証拠であるが、実は決定的な証拠はないのである。

なんとなく「その可能性もありだよなぁ、可能性は低くはないよなぁ」くらいのところではないか。正直。

はっきりはしてはしてはいないが、人類が人類であるがゆえに人為的に排出するCO2の量を減らしてもこれから地球の温暖化は止まらないかもしれないのだ。その可能性は高いということを示すデータもある。
どっちが正しいとかの結論は出ていないのだ。とにかく今はそこは微妙な問題なのです。

それで自分が疑問として投げかけるのは、もしこの温暖化の現象がCO2の放出量と関係がないことが明らかになって、尚且つその温暖化がたとえと止まらないことが明白になっても、人類はCO2の放出量を減らすという運動を止めずに続けることは出来るのであろうか?ということだ。

疑問なのはそこなのである。

そこまで地球温暖化防止を訴える人たちは覚悟をもっているのであろうか?
自分にはそうは思えないのである。特にアル・ゴアあたりは。

なんか今のその温暖化を阻止しようとしている世界的な動きには長いスパンで見た場合の積極的な必然性というものがまったく感じられない。

論拠として非常に弱いような気がするのである。

何か別の目的の為に「地球温暖化の防止」というカードを使っているだけではないのかという疑いさえ感じさせてしまう人物もいる。

誰とはここでは名指しで批判はしないが。

振り返ってみると、この温暖化が最初に叫ばれてその危険について真剣に討議されはじめたのはわずか20年前のことである。

最初にその可能性(危険性)がデータとして示されたのはその約10年前。つまり、今からわずか35年ほど前のことでしかない。

そしてその動きが本格的になったといえるのはここ数年である。

そのわずか20年前(つまり今から数えると50年ほど前まで)日本どころか世界中の人々はなにを恐れていたかというと、むしろ氷河期の再来であった。

氷河期こそが人類の文明を衰退させるものとして怖れ、その対策を講じようとか真剣に考えていたのである。

今、自分もそういう長い目でみた場合どちらを怖れるべきかとの二者択一を迫られたならば選択するのは「寒冷化」のほうである。

6対4くらいか。7・3か。温暖化に対しても警戒する必要もあることはあるのだが、長いスパンで考えなければならないのはむしろ寒冷化ではないか。

今足りないものがあるとすればそれは「寒冷化」に対する心構えのほうではないか。

つまりはどっちみち両方に対する心構えというものは必要じゃないかという気がしてならない。

2

話は変わる。25年ほど前、自分は仕事でちょくちょく岩手に行っていた。岩手の各地には宮沢賢治ゆかりの場所がいくつも残っている。

その宮沢賢治の作品に「グスコーブドリの伝記」という童話がある。童話といっても陰惨というか救いようのない話なのだが、ラストは妙に明るい感じがする。というかそこがこの童話の勧め難いところでもあるのだ。

アニメにもなっているが、あのアニメは絶対に勧められない。アニメだと軽く考えて見るとあとで後悔をする。そういうアニメなのである。出来が悪いというのではない。子供向けにしても大人向けにしても描写がサツすぎるのだ。

「火垂るの墓」よりも原作の毒の部分を強調しているという意味ではある種の怪作であり、果してそれが作者の意図するものに沿っているかという部分では疑問なくらい。(話は変わるが、野坂昭如氏はアニメの「火垂る墓」をはじめてみたときには号泣したらしいですな。アニメの原作者の鑑のようなお人である。)

この「童話」のストーリーについて説明する。

長い冬がもたらす飢餓のため両親にも見捨てられた兄と妹の話である。親からとり残されて粗末な小屋のような家で長い冬をひもじさに耐えながら生き長らえていたふたりのところに人攫いがやってきて妹のネリを連れ去ってしまう。ひとり残された兄のブドリはなんとかひとりで生きのびることができた。ブドリは命の恩人である金持ちの援助を受けて勉強を続けることか許される。そのお金持ちには死んだ息子がいることが明かされる。ブドリが譲りうけたのはその死んだ息子が残した沢山の本であった。その後、火山研究所で学びながら働いていたブドリは、寒さと飢えに苦しむ人々を救うためには沖合いにある休火山を人工的に噴火させて二酸化炭素を大気中に噴出し、大気を温暖化をすることだという説を唱える博士とともにその実現に向けて研究を続けていた。しかし、その火山の噴火の為にブドリは自分の命を落としてしまうのである。そのあともこの童話はつづくのだが。

「火山が噴火したら温暖化するどころか火山灰による遮光効果で逆に寒冷化するじゃないか」という突っ込みがはいりそうだ。たぶんそうだろう。史上最大級の噴火といわれているピナツボ火山の噴火のときも当初心配されたのは温暖化ではなくて寒冷化の方であった。だが、今現在大気中に増加してしまったCO2の殆どが、実は人類か人為的に発生させたものではなく、火山や地熱という地球の営みの結果増えてしまったものであるという説もある。(これはこの童話の本質にも迫ることでもあるのだが)地球を温暖化させているのはCO2ではなくて大気中に大量に放出された水蒸気ではないかという説もある。

そしてどうもこの説は結構信憑性が高いことを最近知ったばかりである。つまり、あながちこの童話の主人公の考えていたこと(まあ、宮沢賢治の考えでもあるだろう)も長い目でみると間違ってもいないのかなというところなのである。ただしやはりそれは長い目でみたばあいだ。

重要なことは、わずか百年前、日本の北の方ではそういう夢を見る人間がいたくらいに日本の冬は寒かった。地球そのものの温暖化というものを切望していた人はいた。多かったということだ。

長い冬と遅い春の訪れ、上がらない気温というものはそのままその地に住む人を飢餓で苦しめ、そして地獄のような様相(現在伝えられる北朝鮮の寒村の惨状なんてそんなもんじゃないという気がするくらいだ)と死さえも意味していたのである。当時の人々はそれを恐れていたのである。忘れてはいけない。わずか100年ほど前の話なのである。

で、100年したら問題になっているのは温暖化の方である。こういう温暖化防止への滅茶苦茶早いシフティングは、そのまま人類の若さ・愚かしさをそのまま表わしているともいえることなのだ。

それに人類が心配をしているのは「地球が」ではなくて、結局は「人類にとっては」であろう。

それが悪いといっているのではない。

資源の消費を抑えるということは大切であるとは思う。その中でも世界最大の資源の消費国であるアメリカ合衆国にはそれが求められている。そしてその次に来るのはこの日本だ。省資源化そのものは実は温暖化とは切り離して考えても大切なことなのである。

しかし、それと温暖化の防止を結びつけようとするのにはものすごい無理がある。そのフローチャートマップ、筋道はまさしく「風吹けば桶屋が儲かる」と大差ないからだ。

どこまでが現実問題として実現可能なことなのか、どこからどの部分までが「仮定」という線だけで結ばれているのか、その部分だけはしっかりと認識したほうがいいのではないか。そっちの方が地球環境の保全へのもっとも確実な近道という気がしてしかたがないんだが。

今人類が進んでいる方向は、宮沢賢治の夢見た温暖化への方向とは別の方角を指している。それはそれで受けとめるべきであろう。

しかし、100年という時間は人の命に較べればものすごく長いが人類の歴史というスパンで考えると、あるいは45億年の地球の歴史の中で考えた場合、あっという間でしかないのである、やはり。温暖化防止が絶対的な善というわけではないのだと、自分は考えている。宮沢賢治の立場でいうのならばだが。

    
     夢が時間に裏切られることはしばしば起こりうる。

     時間が夢を裏切る、それはしかたのないことである。


    
ということなのだと思う。こんなこと言ったら松本零士に怒られたり訴えられたりしそうだけだが。




※まあこんなことを書いたら不採用になってもそりゃしかたがないわな。よく考えると(笑)