2007年4月27日金曜日

070427 その2 津波(津浪)に関すること

【ジュセリーノ予言の真実 0427】 その2 津波(津浪)に関すること

5月発売の「ムー」6月号にそのジュセリーノの特集記事が載る。おととい書店向けの雑誌の集合広告ポスターを見たら載っていた。

ジュセリーノでなくてジョセリーノになっていたが(笑)

この学研の記事は(自分も前に書いたことだが)韮沢氏が個人として直接学研に持ち込んだ企画である。会社対会社のものではない。テレビ朝日に対するアプローチのときもそうだったが韮沢氏の単独の売り込みの時はもう少し校正とかには気をいれてやってほしい(受け入れ側がだが)。再び日本に「ジュセリーノ」なのか「ジョセリーノ」なのかの混乱を招く元になるからである。っていうか受け入れるなよなぁ。あとで自分達の信用を落とすだけになるのに。(註)

やはり、ジュセリーノ本人の動きだけを追っていたのでは、日本では興味が薄れてきているのを敏に感じ取って「金正日」であるとか核兵器の予言であるとかを持ちだして来ているのだろうが。

相変らず底が浅い。そんなことをして向こうでジュセリーノが語っていることと日本に流布していることとの違いがバレたときにはどう収拾をつけるつもりなのであろう?それすらもジュセリーノの責任として押し付けてバイバイしちゃうのだろうか?たま出版は。というか韮沢氏は。

やはりジュセリーノも組む相手を間違えてしまったようだ。まあそういうことはジュセリーノ本人にもメールは送っているのだが。実は。

「あなたの本を日本で出した『たま出版』の社長のニラサワという人は以前「1999年に火星人が地球に攻めてくる」と真剣にテレビで語っていました、ということを含めて。

本当のことだから別に構わないよな。

さて本題。日本のウィキペディアにも載ってしまったことなのだが、

今年の7月13日(あるいは来年の同月同日)30メートルの津波が起きるという「予言」がある。

このことに関して問い合わせのメールが相当数来ている。今この文章を書くに当って数えなおしてみたのだが17通もあった。数えてはいないがコメントにも相当数あったと思う。

人それぞれだが、中にはウィキペディアにも載った「予言」ということで深刻に捉えているという人もいる。やはり小さな子供を持つお母さんとかの立場の人が多いような気がする。「二児ママ」さんや「ひつじこ」さんという方からはこの件に関してかなり長いメールを頂いた。

罪作りなことをするものだ。ウィキペディアの執筆陣も。

もちろんその「真の狙い」はわかっているつもりだ。この「予言」、すぐに「外れ」の判定が出せるものだからだ。これがもし今年ではなくとも「半分外れ」の判定は出せる。そもそもがその程度の志の低い予言でしかない。そこを点いてきたのであろう。

もっともよく読めば「現在審議中」とのことでいつこの件に関する記述が削除されても不思議ではないのだが。もちろん削除を求めたいのはむしろ肯定側の人たちであろうが。

この予言の凄いところは「津浪」をもたらす原因(地震)に関する予言ではないということだ。ただ単に「30メートルの津波が来る」とだけ予言している。しかも「どこに」という場所の記述すらない。

馬鹿か。これのどこが予言なのだ。「警告」なのだ。ただの脅しというかホラ話をもとにした詐欺だろう。ジュセリーノも詐欺だがこれではジュセリーノに輪をかけたような詐欺行為である。

そもそも、自分はこの「30メートル」という表現を見たときに不謹慎な話だが鼻で笑ったクチである。

おそらくはこの「30メートル」という表現を使った人は津波(津浪)のことをよく知らない。知っていたのなら絶対に「30メートル」なんて言い方はできないからである。

「30メートル級の津波」というものがどんなものなのか自分はその被害地に行って見てきたことがあるのだ。岩手の三陸海岸沿岸に何箇所かある。

行けばすぐにわかることなのだが、いわゆるリアス式海岸というやつで山がすぐに海岸に迫りVの字型に入江が狭くなっているので発生した津波が陸側に迫ると逃げ場のなくなった津波の勢いが増しさらに海面が上昇してこのような記録的な「津波」になってしまうのである。

そもそも「津波」の何センチであるとか「何メートル」という表現は津波の規模であるとか大きさを表現するものではない。どこぞの沿岸や川岸ではこのくらい水面が持ち上がる危険性がありますよという一種の警告でしかない。

もちろん30メートルの津波といってもいきなり30メートルの波頭が襲ってくるとかそういう警告でもなんでもない。

だからこういう表現というものは、たとえていうならば、こどもが(あるいはこどもに向けて)「でっかいおばけ」というのと同じである。
とりあえず「大きい」とだけ言えば怖がるであろうとかの程度の低い脅しなのである。たとえ小さくても「おばけ」であるのならばそれだけで「恐怖の対象」となるはずなのに「でっかい」とか付け加えたためになんとなく漫画っぽくなってしまったとしかいいようがないのである。

だからこんな「予言」は「ただの脅し」にすぎないし、こういうことを「予言」であるとか「警告」であるとか言って書く人はアタマがいかれているか、でなければ本格的な幼児脳の持主でしかないと思う。

それにたとえそれが「10分の1」の3メートルであっても津波は恐ろしいものだということは3年前のインドシナ沖津波の惨状を見て我々は学んだはずではなかったのか。違うのであろうか。

改めていうが、こういう予言を「当たるものである」と肯定的に捉えて言いふらすというのもかなり犯罪的な行為ではある。

しかし、それ以上に問題なのは、こういう「怪しい予言」で飯を食っている連中というものが現実に存在するということだ。それは絶対に許してしいけないことだと思っている。

というか自分にとってはすでにそうだが、全ての人にとっても軽蔑すべき対象でしかないのではないか。職業に貴賎なしとはいうものの、オカルトで飯を食っている連中はやはり賤(いや)しいのである。もしその自覚がないとすれば問題はそっちか。

以前「まちゅーら」という名前でメールを送ってきた女子高生の方が4月から大学生になったということで新しく「うらこまち」という名前でメールを送ってきた。

同じクラスにブラジルからの留学生がいて彼女たちと話をしたときに(日本人の)誰かがジュセリーノの名前を出したらそのブラジル人たちはクスッと笑って「愚かな者にもそれに見合うだけの神はいる」という意味合いの言葉を言ったのだそうである。また、「日本でオウムの事件があったりするように世界のどこにでもこういう困った宗教はある」というようなことも言ったとか。

鋭い。この人のメールにはいつも新しいことを気づかされる。

確かにその通りである。よく考えてみるとジュセリーノの言っていることはノストラダムスの予言のへんてこ解釈を持ち出してみるとよくわかることなのだが、オウムの松本智津夫がかつていっていたことともよく似ているのである。
(つづく)


[註]




 学習研究社という会社の社会的信用のことを憂いているのである。この記事のこの部分を読んで「なにか、オマイさんは『ムー』という雑誌に社会的信用を求めているのかい?」であるとか「『ムー』にはそんなもの最初からありません(笑)」みたいなメールとかを頂いた。
まあ、確かに「ムー」という雑誌はそうだろう。でもやはり「ムー」もやはり学習研究社という歴史と実績のある出版社(最近は単純に出版社とはいえなくなってきているが)から出版されているのは事実なのである。もう代変りも済んで、旧「UFOと宇宙」時代からの生き残り編集者なんていなくなって久しいし、ムーを発行している会社が学研に合併吸収されて、今「ムー」の編集部にいるのは殆どが学研の社員とその契約編集者だけのはずだ。
雑誌「ムー」と不定期刊行誌であった時代の「TAMA」との関係についてはいまさらながらだが、たま出版の人間(しかも代表権のある社長だ)が学研の雑誌に企画を持ち込むというのも、これもひとつの時代の流れなのかもしれない。良い企画がないんだろうなぁ。お互いに。(オカルティズムとは想像の世界であるからして、今こういうオカルト雑誌をやっている人間の想像力そのものが貧困になって、イタズラに人を驚かせたり恐怖を味わせるような幼児向きのホラーとかに片寄るのではないかと愁る部分もあるのだが)




※追記
「津波」と「津浪」がごちゃごちゃしていてこんがらがるので統一すれば?というメールとかが結構あった。自分としては使い分けているつもりであったがこの記事ではその正しい使い分けが出来ていなかった。多分ものすごく怒っていたからだと思う。すいませんでした。訂正しておきます。

誰に対して怒っていたかといえば、もちろんこういう嘘の予言を撒き散らしている連中にだ。

もちろん、正しくは「津波」なのであるが、「30メートル級の津波」などと書いているのでそれは「津波」じゃなくて「津浪」だろうというつっこみということでここでは「津浪」を連呼していた。

「津波」とはなにか? 予言として「津波」という言葉を使っている人にはこの質問に対して正しく答えられる人はあまり、いや殆どいないだろう。だから平気な顔して「30メートルの津波」などと書けるのであろう。そういう人には「30メートル級の津波」などという言葉(たとえ戯言の予言もどきだとしても)は使ってはほしくないものだ。

あなたが言いたいのはそれは「津波」ではなくて「津浪」だろ?ということだ。

津波とは何か? 一言で言えば地震や(海底)火山の噴火など地殻の変動で生じた(噴出した)エネルギー空気中に開放されずに海水であるとか河水に伝わったもの、あるいは伝わる現象のことである。

仮にそのエネルギーが開放される方向が塞がっていなければだが、そのエネルギーは合力となって波紋状に周囲に広がってゆく。仮に真横から見ればそれは半球状に広がってゆくのである。

したがって(という言い方もおかしいのだが)仮に海面が30メートル持ち上がったとしてもそれがそのまま30メートルの高さを保ったまま広がってゆくということではない。位置エネルギーが運動エネルギーに変わるということは高低差が小さくなるということだからだ。

だから「30メートルの津波」という言い方はおかしいのである。どこで30メートルになるかが問題だからだ。もし波頭が地上より30メートルも上になるという意味ならばそれは「津波」ではなくて「30メートルの津浪」でしょ?ということを言いたいのであるが。

だからそういう「30メートルのつなみが~」とか書いていたり言っていたりする人がいたら鼻でせせら笑うのが正しい態度なのである。

問題はどの場所でどのくらいの波となって海岸や河岸、湖岸に届き、どのくらい潮(水)位が上がるかのほうである。

それに、何度も繰り返すようだが、たとえ30メートルでなくても、その10分の1の3メートルの波が押し寄せてきても津波が津波である以上それは恐るべき力を持っている。ただの「波」ではないからだ。

そういう現実というものを観る目を持たずして「30メートルのつなみ」などと言っている連中など、はっきり言うが私に言わせばただの「嘘つき」の亜種である。

そういえば昔ニラサワ氏がテレビで「精神的なエネルギーというか念を送ることで雲(積乱雲というような限定ではなく雲全般)の形を自由自在に変えることが出来る(人がいる)」といってスタジオにいた学者達が大爆笑になったことがあった。

きっとニラサワ氏は何故学者全員が大爆笑になったか今でもわからないのであろう。(最近も同じようなことを言っているからだ)可哀想な人ではある。

(答え:雲にはもともと大きさとか形というものがない。大気中の水蒸気の集まりの濃い部分が光を屈折させてそこにそういう形のものがあるかのように見えているだけである。「雲の形がかわる」ということはそこに流れている風であるとか上からの太陽の光、あるいは地表などで発生した熱などの影響を受けているということであるから、自由自在に操って形を変えることが出来るということはありえないのだ。そう雲が雲としてそういう形に見えるということは太陽の光というものが大きく作用している。でなければ月の出ていない闇夜になると「その雲を透して星の光が見えることもある」ということが説明できなくなるではないか。昼間見える雲というものは様様な要素によってそこにあるように見えているに過ぎないのである。雲の「大きさ」だって、つまるところは周囲との対比でもってなんとなくあるといってもいいくらいのものでしかない。

だから、その雲の形を自由に変えることの出来る人というのは、ふりそそぐ太陽の光さえも自由に操れると言っているのも同じことになる。そんな奴はいないだろ、いくらなんでも。

ニラサワ氏が嘲笑の対象となってしまうのは、こういうどちらかというとただの「お話」として楽しめばいいような事に「精神的なエネルギー」であるとか「検知器で計測された事実である」とか余計なものをくっつけて持ち出して来て、自分の話に「(他の人とは違うのだという)箔」をつけようとしてしまうからだ。いや、素人相手にこのような与太話を披露するのはまだかまわないとしてもだ、いくらなんでも本物の物理学者や気象学の研究者に向かって「いつもと同じ感じ」で語ってしまうからその無謀さと無防備が笑われるのである。

あるいは「物理学の常識を覆すような事実が次々と出て来ている」とやたら挑戦的なことを口走るので「口撃対象にされる」のであり、結果自分が恥をかくような目に遭うのであるが。

まあそれが自分の意志であるのならばそれでもいいとしてだ。問題は「オカルティズム」というものをただ単に自分の商売道具としか考えておらずに、自分の出版社から出た本を売るためだけにこういう浅はかなことを喋りまくるとどうなるか。「仲間」というか「同士」からも疎まれて孤立するだけなのである。

結果自分の首を締めるようなことをしているのである。そのことにこの人はまだ気がついていない。いやもう今さら気づいても遅いのかもしれないが。


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